主張は感情だけじゃ届かない。
それなりの理屈がともなわなければ、無視されるだけ——。
そう思っていても、信じていても、社会は感情ベースで動きがちだ。
ちょうど2年前の今日、とあるツイッターアカウントを始めた。
保守か、はたまた革新か。
政権与党か、はたまた野党か。
生まれ育った街で、翌年に区議選が行われる。
その二極化の中に、埋もれる意見はないか。
むしろ、それがサイレントマジョリティである可能性はないか。
直前の区長選が、187票の僅差で決しただけに、心配になったのだ。
結果としては、私は翌年の区議選で惨敗し、構図を鮮明とした候補が上位当選した。
私の力不足は当然ある。
ただ、この2年間で「二極化」は強まる一方だ。
その二極化の中に、埋もれる意見はないか。
むしろ、それがサイレントマジョリティである可能性はないか。
当時覚えた懸念は、現職区議の誰よりも、より先見性があったと感じる。
いまは在野の表現者として、身近なところから動くしかない。
でも、いつかまた、問いかける時が来ることを願っている。