2025年7月26日土曜日のらニュースでございます。
へずまりゅうが奈良市議選に上位当選した理由
まず最初に宣伝をさせていただきたいのですが、昨日、プレジデントオンラインに私が書いたコラムが寄稿されました。先日の奈良市議選で当選した元迷惑系YouTuberのへずまりゅうさんについて、なぜ当選したのかという内容をご紹介しています。

この「のらニュース」でも少しお話ししましたが、それを深掘りする形で、いわゆる世の中の右傾化や「悪名も無名に勝る」といった点だけではなく、他にも複数の要因が重なっていたため、彼の当選は必然だったという内容を書いています。
個人的には、これまでの彼の活動や、今回の選挙戦での主張には相いれない部分が多いので、彼を支持するわけではありませんが、できるだけ客観的に物事を見たいと思いながら書いています。もしよろしければご覧になってください。
参政党と神奈川新聞、そもそもかみ合ってない件
それでは次にニュースをご紹介しましょう。一昨日あたりから話題になっていますが、参政党が神奈川新聞の記者を会見から排除したことが注目されています。これは22日に参議院議員会館で行われた会見に神奈川新聞の記者が出席しようとしたところ、事前登録をしていないため取材できないと言われたという件です。
ここでお互いの主張にずれがあるので、まず神奈川新聞側の主張を紹介します。記者が会見場に取材に行ったところ、「事前登録がないため取材はできない」と言われ、記者側が「ここにいる記者は全員登録しているんですか?」と尋ねたところ、「登録しているのではないか」と適当なことを言われたとのことです。

これに対し、参政党は24日に反論しています。この記者が、参院選の選挙期間中に「しばき隊」と呼ばれる団体と共に行動し、本当の街頭演説で大声による誹謗中傷などの妨害行為に関与していたことが確認されたとしています。
また、これまで倫理規定に違反する妨害行為への対応を行ってきたことについても言及し、記者会見は本来の考えや立場を広く伝えるための重要な場であり、妨害や混乱があっては目的を果たせないと書いています。

しかし、この時点での両者の視点が合っていない印象を受けました。
神奈川新聞側は、「取材の申し込みを事前に行っていないことを理由に参政党の会見に参加できなかったとされた」と主張していますが、参政党の発表文には事前登録についての言及がまったくありません。ですので、互いの論点がずれていると感じます。
参政党が「神奈川新聞記者」を受け入れるべき理由
私はできるだけフラットな視点で物事を見ようとしています。参政党については個人的に全く支持していませんし、なぜこんなに躍進したのかということについても行き通りを感じています。一方で、メディア側の立ち位置についても常に考えています。
私自身の立場を改めて説明しますと、大学を卒業してから約10年間、ネットニュースの記者として活動しました。その後、政治に軽く関わりながら選挙に出るなど、政治に触れる機会を持ってきましたが、基本的にはメディアでの発信が中心となっています。したがって、メディアと政治の両方の視点から物事を忠実に見るよう努力しています。
参政党の対応について見てみますと、これは取材の事前登録があったかどうかに関わらず、仮に席に空きがあるのであれば、参加を認めるべきだと思います。記者がどのような立場であっても、取材する権利は保障されるべきです。
あらゆる「政治家の会見」は、求められれば受け入れるべきだ
その記者は、個人としてきているのではなく、神奈川新聞を代表しているのです。そのため、記者個人の行動が問題視されるべきではありません。また、この記者の思想信条を理由にメディア全体を排除することがあっては、中立性の観点からも疑問があります。
私は、今回の参政党の対応が妥当なのかという点で疑問を抱いています。あらゆる記者会見には求めがあれば参加するべきで、最近の世の中では、報道活動がより制約されているように感じます。
石丸伸二さんが新党「再生の道」を立ち上げた際の記者会見も同様に、報道媒体に制約を設け、ネットメディアも「YouTubeのチャンネル登録者数」を基準に絞り込んだのが記憶に新しく、同様に許されないと思います。
民間企業ならまだしも、税収で生活する政治の場で、そんなことがあってはなりません。一方で、メディア側にも責任があるのではないかとも感じています。
「記者個人」と「メディア全体」は違うはずなのに…
言論は地続きなので、両者が結びついて全体像が構築されています。
最近、多くの表現活動がSNSによって行われていますが、記者がどのように情報発信を行うかが問題です。特に、肩書きを背負った記者が、個人的な主義主張をSNSで発信する際、その内容が「メディアの立場」とどう関わるかを考える必要があります。
例えば、神奈川新聞の記者がSNSを利用する際、どの程度の主義主張を発信して良いのか。メディアとしての論調は社説などの形で、見解が反映されているでしょう。
このような背景を考慮すると、記者一人一人が自身をメディアそのものと捉えられることが問題でありるのですが、ここ数年その傾向が強くなっています。
新聞記者は「特権階級」にあることを忘れてはいけない
私も辛酸をなめてきましたが、新しく登場したネットメディアは、権力側に位置する既存のメディアと比較して、取材の難しさを痛感しています。
新聞やテレビは、記者クラブの制度を利用して、容易に取材できる立場であり、彼ら彼女らは「権力側」なんですよね。首相会見で「自身の主張」をぶつける新聞記者もいますが、ネットメディアやフリーランスの人たちはそこに参加しづらい状況にあります。
このような状況を放置して、「既得権益のあるメディア」が現状を維持しながら権利だけを主張している現状はどうなのか。変革を志向する政治勢力が存在する中、あえてカギカッコを付けますが「オールドメディア」の姿勢を理由に、取材拒否を容認するような雰囲気が生まれていると私は考えています。
最も重要なのは、「取材という名の表現活動」をする人だけがジャーナリストではないという点です。真っ当な立場から真実を問う人たちもいるわけですから、そういう人たちを排除する要因が生まれることは避けなければなりません。
したがって、しっかりとしたメディアは社内の倫理規定を定める必要があります。この両方の視点から、取り組んでいくべきだと考えています。時間が足りなくなりましたが、以上です。それでは大事にしてください。
(以上はコラムニスト・城戸譲が、ポッドキャスト「のらニュース」などで話した内容を、AI文字起こし・要約によってブログ記事化したものです。公開時点で最新情報ではない可能性があるため、その点はご了承ください)