2025年6月9日月曜日、のらニュースでございます。
14回目の「アジア最大級のLGBTQ+イベント」
昨日の日曜日は、午後からちょっと出かけまして、深夜に帰ってきたような感じなんですけれども、この話題を今日通してお話ししたいと思います。
12分間という短い間でお話ができるかわからないんですけれども、とりあえず触れてみようと思う今日のニュースは、昨日おとといと東京の代々木公園周辺でTokyo Pride(東京プライド)というイベントが開かれました。で、そこを見に行ってきたというお話です。
ちょっとね、いろんな価値観が分かれると思いますので、まずは公式サイトの説明文をご紹介いたします。
Tokyo Pride(旧:Tokyo Rainbow Pride)は、今年で14回目を迎えるアジア最大級のLGBTQ+イベントです。プライドパレードとプライドフェスティバルを通じて、2012年の初開催以来、当事者の可視化を推進し、社会全体においてLGBTQ+コミュニティへの理解や認識が着実に広がりました。現在では「LGBTQ+」という言葉自体も広く浸透しています
というような形で、一番最初の段落だけご紹介したんですけれども、今言ったように、元々Tokyo Rainbow Pride(東京レインボープライド)という名前で、レインボーフラッグという虹色の旗がLGBTQ+のコミュニティのマーク、シンボルだったわけなんですが、それにとらわれず、幅広いあらゆる権利の保護に焦点を当てて、名称変更されたという流れがあります。ニュースなどでご覧になっている方もいらっしゃるでしょうし、私は今回初めて見に行ってきました。
性別による「べき論」は、たしかに支持されやすい
友人たちに誘われて、まあ、自分からぽっと行くのはなかなか難しいんですけれども、誘われたんだったら行ってもいいかなと思いまして。パレードに参加することもできるらしいんですが、ちょっとその時間帯からは外れてしまったので、ブースを見て、パレードを歩いている方を見るなどしていました。
LGBTQ+の話というのは非常にセンシティブな内容ですので、こののらニュースでご紹介するのはどうかと思ったんですが、これはやっぱり自分のフィルターを通してニュースとして伝えなければいけないと思いましたので、今回取り上げさせて頂きました。
私の生まれ育った東京都杉並区は、2023年にようやくパートナーシップ条例が制定されたわけなんですが、その採決を巡ってもかなり問題がありました。一言で言うと、「男は男であるべきだ」「女は女であるべきだ」という価値観や家父長制を主張することで、支持を集めている政治家が複数いる背景があります。そうした議員は、「同性婚も含めた権利の拡大は、日本国というものを根本から覆す恐れがある」という認識から、警鐘を鳴らし、止めさせるべきだと主張する方々もいます。
これは杉並に限らず、日本中に一定数いますし、たまに報道されることもあります。しかしながら、そういった気運が、最終的には差別や偏見、迫害のようなものにつながる可能性があります。
「家族のスタイル」は、決まりきったものだけでいいのか
私の個人的な感覚から言いますと、やはりその人がその人らしくあることが一番望ましいと思っています。
パートナーが必ずしも異性である必要があるのか。こうした政策に反対される方々からは、「子孫を育て、繁栄させていくのが人類の使命なのに、それを放棄している」といった主張があったりします。とはいえ、最終的には当事者である本人たちの意思が非常に大切です。
仮に異性同士の間で生まれたお子さんであっても、その後の両親の状況によっては、子どもが幸せに生活できない可能性もあるため、一概に「これだから」と家庭のスタイルを否定することだとは思っていません。
むしろ、あらゆる家庭の形があることによって、その周りの人たちの価値観もアップデートされていくのではないかという立場の人間です。基本的に賛成しています。
デモに対する嫌悪感と、パレードに感じた安心感
ただ一方で、今回誘われるまで行こうと思わなかったのは、どこか私にも偏見があったからです。
客観的に見てそう感じている方は、私以外にもいると思いますが、パレードやデモに対する抵抗感を覚えていました。権利保護を目的としたデモの多くは、耳をつんざくほどの大きな声を張り上げて、主張を声高に訴えます。そうしたスタイルには、嫌悪感に近い感情があったのです。
ただ、今回行ってみて感じたのは、パレードは非常に静かで、歩くことそのものが主張になっているということ。レインボーフラッグや、様々な属性を表す旗を掲げている方がいらっしゃって、「肉声としては出てこないものの、しっかり声は上げている」と強く感じました。その点、百聞は一見にしかずと、恥じました。
「理解ある」が、ファッション化していないか。それでも良いと見るか?
もう一つの懸念は、参加者にはファッション感覚でアライ(セクシャルマイノリティの理解者や支援者、賛同者を指す)を主張される方もいるのではないかということ。
もちろん当事者の方々は非常に悩みを抱えていると思いますが、「理解のある自分はカッコイイ、自分は進んでいるんだ」というブランディングのために、アライをうたっている人は少なくないのではないかと、私のようなうがった見方をする人間は感じてしまうのです。
企業ブースにもそういう可能性があるのではないかなと思っていました。企業としては、CSRやSDGsの観点から、多様な人権を尊重することをアピールした方が、投資家からお金が入ってくるし、商品も買ってもらいやすいということは明らかです。
とはいえ、今回の訪問では、商売に利用している人たちがいるのではないかという思いが、完全には拭えませんでした。もちろん、各企業には当事者の方もいるでしょう。一方で、仕事だからやっているのではないかと思わせる人もいたんだろうなという印象です。
言語化されて気づいた「自分はおかしくなかった」
もちろん、こうした場に出ることにより、「いろんな考えがあるんだ」と触れるきっかけにはなります。昨日今日を境に新たな価値観が形成される可能性もゼロではないと思います。その意味では非常に意義のある転換点かもしれません。
先ほどから「当事者の方々」と言っていますが、私も実は、セクシュアルマイノリティ、性的マイノリティという意味では当事者の一人です。私の場合は、男性として生まれて、37年間生きてきましたが、女性にも男性にも、基本的には性的興味を抱きません。
とくに思春期には性の話題が出がちですが、自分は女性に対して性的興奮を示さないし、かといって男性にも示しませんでした。そして、「いつか、どちらかに興味を持つんだ」と、自分の中での決めつけたまま生きてきました。
そうした生きづらさを抱えたまま、30歳を過ぎてようやく、他者に性的興奮を覚えない「アセクシャル」なる概念を知りました。言語化されて初めて、自分はおかしくないんだと、安心した記憶があります。今日は時間がありませんが、また改めて、この件はお話ししたいですね。
(以上はコラムニスト・城戸譲が、ポッドキャスト「のらニュース」などで話した内容を、AI文字起こし・要約によってブログ記事化したものです。公開時点で最新情報ではない可能性があるため、その点はご了承ください)